この部屋は、皆さんの日常の中で知っていてもそんなに得ってわけじゃないけど
知ってたら結構楽しい!と思えるようなことを紹介していきます。
☆これらのお話は『話のネタ大事典』(PHP文庫)を参考に書いています。
15日 | >16日 | 17日 | 18日 | 19日 | 20日 | ||||
21日 | 22日 | 23日 | 24日 | 25日 | 26日 | 27日 | 28日 | 29日 | 30日 |
31日 |
昭和10年のこの日、物理学者、随筆家の寺田寅彦が亡くなりました。
「雪の降るまちを」の舞台はどこ?
雪の季節になると、どこからともなく聞こえてくる歌に「雪の降るまちを」があります。♪雪の降るまちを、雪の降るまちを、想い出だけが通りすぎて行く・・・♪NHKのラジオドラマに「えり子とともに」(昭和24年〜27年)という番組があったそうです。「雪の降るまちを」はその挿入歌で、作詞者はそのドラマの作者でもあった内村直也氏、作曲は中田喜直氏です。
内村氏がこの歌の作詞にかけたのはわずか15分だったということです。歌がヒットするとこの歌の舞台はうちだ!といろいろな町が名乗りをあげました。では当の作詞者はどこを舞台にしたかといえば、、、、、。何のことはない、空想(ヴァーチャル)な町だということでした。内村氏は東京生まれで、雪の体験といえば学生時代に北海道のスキー場に行ったことぐらいだったそうです。しかし、この歌は北海道の雪の町をイメージして作ったわけではなく、あくまでも、空想した世界を思い浮かべ、作ったのだそうです。
小次郎母の故郷は、石川県、雪が多く降るところです。どんなところか?を知るには、「カラオケ」で「能登半島」(石川さゆり)をリクエストしてみて下さい。画面に映し出される、情景が、すなわち、小次郎母が体験してきた、「冬、雪」の情景です!雪や寒さに耐性を持っているはずの小次郎母は、東京の温暖な冬に慣れきってしまい、今では全く、寒いのはダメです。
1922年のこの日、ソ連邦(ソビエト社会主義共和国)が成立しました。
白ロシアの「白」は何の色?
ロシアには西にベラルーシ共和国という国があります。その「ベラ」は「白」、「ルーシ」は「ロシア」を意味します。すなわち、「ベラルーシ」とは「白いロシア」という意味です。そこで日本は昔、この国のことを「白ロシア」と呼んでいました。ところでその「白」とはいったい何を意味しているのでしょうか?
この地域がベラルーシ(白いロシア)と呼ばれるようになったのは14世紀以降のことです。その語源についてはいくつかの説があります。
13世紀、この地域の西半分はリトアニア公国に併合され、そこの住民は「黒いロシア人」と呼ばれました。北東部の人々はどこにも従属せず、「白いロシア人」呼ばれました。「白いロシア」(ベラルーシ)という国名はそこからいているのです。その「白」とはm「自由、独立」の意味を表したものだといわれています。この説がもっとも有力ですが、ほかに住民の衣服や肌の色、あるいはベラヤ(白い川という意味)という川の名に由来するという説もあります。
1896年のこの日、メキシコの画家、シケイロスが誕生しました。
最も長い間、卵を抱いている鳥は?
ほとんどの鳥はメスが産んだ卵をメスとオスのいずれかが抱いて温め、孵化させます。鳥が卵を抱いている期間は種類によってまちまちで、もっとも抱卵期間が短いのはアカラゲで約10日間です。カッコウ類は他の鳥に抱卵させることで知られていますが、ハシグロカッコウは自分たちで巣を作り、抱卵して孵化させます。そのハシグロカッコウの抱卵期間も10日ほどです。
では、もっとも長い間抱卵している鳥はなになのでしょう?アホウドリの一種、ワタリアホウドリは卵を1個産み、オスとメスが交代で卵を抱きますが、抱卵期間はふつう77日前後です。ニュージーランドにだけ棲息している、キーウィという鳥がいます。この鳥は自分の体重の約5分の1もある卵を1〜2個産み、オスが卵を抱きます。メスはまったく卵を抱きません。オスが抱卵している期間は75〜80日もあり、鳥類ではもっとも抱卵が長いのはこのキーウィだと言われています。(キーウィのオスは大変ですね!)
納め不動(千葉県成田市の新勝寺、熊本県宇土市の木原不動他)の日です。
猫が船乗り達に重宝がられるわけは?
その昔、猫は船の守り神とされていました。とりわけ三毛猫のオスが重宝がられました。船に積まれた食べ物や品物などをネズミがかじります。猫はそのネズミを退治してくれました。また天候を予知するとも言われていました。たとえば三毛猫が暴れると大嵐がやってくるとか、時化がやってきそうになると帆柱に駆け上がってそれを知らせるとも言われていました。そこで猫(特に三毛猫)は船乗りのマスコットとなっていたわけです。
猫は天気の状態によって特異な動作をするといわれています。たとえば嵐などで方向を見失ったときには猫が進む方向を北としました。なぜか?それについてはこんな話しがあります。子(ネズミ)・丑(牛)・寅(虎)・・・・・・の十二支はもともと方角を表し、子(ネズミ)は北の方向を意味しました。
だから猫はネズミを追って北に進むというわけです。これはもちろんこじつけですが、どうも猫は北の方向をめざす傾向があることは確かのようです。(そのわけはまだ分かっていません)、昔の人は経験的にそのこをを知っていたのでしょう。
でも、小次郎は大嵐が来たら、誰よりも早く、方角を問わず、ピューっとどこかに逃げてしまうことでしょう!
昭和35年のこの日、池田内閣は、閣議で国民所得倍増計画を決定しました。
☆電子レンジで温めたものは冷めやすい?
電子レンジは食品をすばやく温めることが出来て、とても便利ですよね。しかし、電子レンジで温めたものは冷めやすいと言われます。本当でしょうか?
結論から言うと、答えは「YES}です。例えば肉マンを電子レンジと蒸し器で温めた場合、電子レンジで温めた方が早く冷めます。それはどうしてでしょう?
電子レンジは周波数2450メガヘルツの電波を発生させ、それによって食品の中の水の分子を振動させます。この時、水の分子が互いにこすれ合って、摩擦熱が生じ、食品の内部の温度が上昇するしくみです。蒸し器の場合は蒸気で温めるので、食品を温めると同時に食品に湿気(水分)も与えています。一方、電子レンジでは、水分の一部が食品の外に出てしまいます。食品は温められた水分が多いほど冷めにくく、少ないほど冷めやすいので、電子レンジで温めたものは冷めやすいということになるのです。
電子レンジと言えば、私の失敗談、ある時、電子レンジの使い方がわかっていなかった私は、アルミホイルに包んだものを温めようとして、発火!すわ!火事だ!と慌てたことがあります。あれ以来、私は電子レンジはあんまり使いたくなくなってしまいました。ですから、出来上がったものをすぐ食べる以外は、冷えたら、お鍋で温めるか蒸し器で蒸すという旧態依然とした再加熱方法を出来るだけとっています。
昭和44年のこの日、鳥井音楽賞が制定されました。(のちにサントリー音楽賞に改称。「鳥井さん」をひっくり返して「さん鳥井」→「サントリー」! 種をあかせばなんてことないネーミングの経緯ですが、素晴らしい名前ですね。こんなに名前が売れている企業ですが、上場会社でも公開会社でもありません。)
☆「ぬか喜び」の”ぬか”とは?
当てが外れて、後でがっかりするような一時的な喜びのことを「ぬか喜び」といいます。その「ぬか」は漢字で書けば「糠」で、玄米などの穀類を精白する時、果皮・種皮などが細かく砕けて粉になったものをいいます。因みに「ぬか」とは一説に「ぬけかわ」(脱皮)の意味だといわれているそうです。
「ぬか喜び」という言葉は江戸時代になって生まれたもののようですが、後でがっかりするような一時的な喜びのことをどうして「ぬか喜び」というようになったのでしょうか?
「ぬか」とは果皮・種皮などが細かく砕けて粉になったもの、そこから、細かい、ちっぽけな、はかないと言った意味に用いられるようになりました。それで、はかない、一時的な喜びのことを「ぬか喜び」というようになったのです。
「雀のぬか喜び」ということわざがあります。雀がぬかを見て米もあると思って喜んだが、ぬかばかりでがっかりすることを言ったものです。
明治30年のこの日、志賀潔が赤痢の病原菌を発見しました。(私が幼稚園児の頃、赤痢が大流行した記憶があります。)
☆寝不足で目がショボショボするのはなぜ?
睡眠が充分でないとき、目がショボショボすることがありますね。また寝過ぎてもそうした状態になったりもします。それはどうしてでしょう。
哀しい時やうれしい時、人間は涙を流します。それは体の機能を一定に保つ役割を果たしている自律神経が働いて、涙腺に刺激を与える為です。タマネギを切ったとき、涙が出るのも同じメイカニズムです。でも、涙は泣いたりするときだけ出ているのではありません。
目の表面は常に涙に覆われていて、目に入ったゴミを洗い流したり、また栄養や酸素を角膜に与える役割も果たしています。涙は常に出ていて、その量は1日に目薬20滴分に相当します。
寝不足などで、体調を崩し、自律神経のバランスが狂ってしまうと涙の分泌が少なくなってしまい、角膜の表面をおおっている涙の層(涙液層)が乾いてしまうのです。そこでショボショボした感じになるわけです。
さて、タマネギに関するワンポイントアドバイスです。
タマネギは美味しいけれど、包丁で切ると、ポロポロ涙が出て困ります。そんな時は、まな板の両脇にろうそくを灯すのです。火を灯すと火の部分に上昇気流が生じます。そうしてまわりの空気の対流を促し、タマネギを切ったときに出る、あの刺激成分もろうそくの上昇気流で両脇にひっぱられ、切っている人の顔の周りからは逸れるというわけです。どうぞ、男性の方は奥様、彼女に教えてあげて下さいね!
昭和28年のこの日、奄美群島返還の日米協定が調印されました。
☆なぜウナギはお刺身で食べないの?
魚の食べ方の一つに煮たり焼いたりせず、そのままお刺身にして食べる方法があります。ところがウナギはお刺身では殆ど食べませんね。ウナギの最も一般的な食べ方は蒲焼きで、ウナギ専門店でもウナギのお刺身をおいているところはありません。どうしてでしょう?
ウナギの血液の中にはイクシオトキシンという物質が含まれており、それは人間にとって有毒なのです。
その毒素が目に入ると結膜炎を起こし、傷口に付着すると炎症を起こし、口から入った場合には吐き気や中毒症状を引き起こすのです。大量に飲み込むと死亡することもあるそうです。
この毒は熱に弱く、火を通せば毒性を失い、また、血液をきれいに洗い流せばお刺身として食べられないことはありませんが、ウナギは蒲焼きが最も美味しく、上述の毒の危険も避けることが出来ることから昔からウナギはお刺身ではあまり食べられて来なかったというわけです。
ウナギの血液に毒性があるってビックリですね。でも、血液をキレイに洗い流して、一度食べてみたいような気がしています。私。でも、きっとあんまり美味しくないんでしょうね!やっぱり蒲焼きが1番!そんな感じでしょうか。
明治4年のこの日、作家の徳田秋声が誕生しました。
☆サウナに入れば酒っ気が抜ける?
お酒を飲みすぎて酔ってしまい、酔いをさますためにサウナやお風呂に入るという人がいらっしゃいます。果たして、それは効果があるのでしょうか?
飲んだお酒、つまりアルコールは胃腸から吸収され、肝臓に集まり、何種類かの酵素によって分解され、最終的には炭酸ガスと水になって体外に排出されます。アルコール分は酵素によって、分解され、アセトアルデヒトという物質が生成されます。そしてそれは別の酵素によって分解され、酢酸に変わります。ところがお酒を飲む過ぎるとアセトアルデヒトの分解が間に合わなくなり、血中にたまり、頭痛・吐き気などの二日酔いをもたらします。
汗腺にはアルコールやアセトアルデヒトを排出する機構は備わっていません。ですから、汗をかくことでアルコールやアセトアルデヒトの血中濃度は下がりません。つまり、サウナに入っていてもお酒は抜けないのです。
弘化4年(1847)のこの日、軍人の東郷平八郎が誕生しました。
☆肉ジャガの生みの親は東郷平八郎
牛肉とジャガイモに、お醤油とお砂糖を加えて煮たお料理が「肉ジャガ」です。日本の代表的な家庭料理ですね。この「肉ジャガ」はどのようにして生まれたのでしょう。
殆どのお料理はその起源を特定するのは難しいのですが、「肉ジャガ」についてはいきさつが分かっています。
「肉ジャガ」は明治・大正の海軍軍人・東郷平八郎が考案したものだと言われているのです。明治4年から11年にかけて東郷さんはイギリスに留学し、帰国後、旧海軍呉鎮守府参謀長、旧海軍舞鶴鎮守府長官となり、広島県の呉と京都府の舞鶴に赴任しました。留学中に食べたビーフシチューを懐かしんで、それを作らせたのですが、ワインがなかった為お醤油とお砂糖で調理させました。それが「肉ジャガ」の始まりといわれています。ただし、誕生したのが、呉なのか舞鶴なのかは明らかではないそうです。
昭和60年のこの日、日本相撲協会が花籠親方(元・横綱輪島)の角界追放を決定しました。(輪島と言えば、私の故郷の町、石川県七尾市のスーパースターだったのに、、、。ばかなことをしたものです。そうそう、輪島がまだ横綱だったころ、優勝インタビューで、「輪島さんの故郷、七尾市は日本海に面していて、冬は寒さが厳しいようですね。強靭な精神力はその厳しい冬から体得なさったのですか?」という問いに、「冬は寒いですね。でも、私の故郷、七尾市は、日本海ではなく、「七尾湾」に面しています」と言ってしまい、その教育程度の低さを全国レベルで露呈していました。)
☆童謡の「黄金虫」はゴキブリのこと!?
野口雨情作詞の童謡に『黄金虫』があります。「黄金虫は金持ちだ〜♪金蔵建てた蔵建てた〜♪飴屋で水飴買ってきた〜♪」という歌詞で、おなじみですね。
だれでも知っている有名な歌ですが、この黄金虫は昆虫学上のコガネムシではないとの説があるのです。では黄金虫の正体は?実は、黄金虫はゴキブリ(チャバネゴキブリ)だといわれているのです。(ウギャー!!)
野口雨情が生まれたのは茨城県、北関東地方では古くからチャバネゴキブリをその体の色からコガネムシと呼んでいたそうなんです。そしてチャバネゴキブリが家に増えるとお金持ちになると言う言い伝えがあったそうです。(私、それなら、お金持ちにならなくていいです!)因みに岡山や愛知にもそうした俗信が伝わっているそうです。
野口雨情自身は何も言っていませんが、彼の作詞した「黄金虫」はどうもゴキブリらしいのです。
余談ですが、ゴキブリは、気温25度以上になると、飛ぶことが出来るそうです。夏、いきなり、ゴキブリが飛んできたら、、、、。私はそのまま、卒倒し、ひょっとしたらショック死するかもしれません。あと、ゴキブリ一匹は1円切手の裏に薄く塗ってある「のり」で、1年間生き延びられるそうです。すごい生命力ですね。
嘉永5年(1825)のこの日、細菌学者の北里柴三郎氏が誕生しました。北里大学病院と言えば、去年、私が入院でお世話になった病院です。看護婦さんがとても優しくて、ありがたかったです。)
☆ゴリラは毎日新しいベッドで眠る
人間に近いと考えられている猿の種類を「類人猿」と称しています。類人猿の中で最大のものはゴリラですが、ゴリラをはじめチンパンジーやオランウータンには尻尾がありません。(ご存知でしたか?私は全然、意識したことがなかったのですが、そう言われてみると、確かにありませんよね。)
ゴリラと普通の猿との相違点は他にもあります。猿のお尻には表面の皮が固くなってタコになっている部分があり、それを尻タコ(そのまんま!)と言います。その尻タコのおかげで、猿たちは固い岩の上や木の枝などに長い間座ったり、眠ったりすることが出来るのです。ゴリラには尻タコがありません。そこでゴリラは木の枝や葉っぱなどを用いてベッドを作り、その上で休みます。同じ類人猿のチンパンジーやオランウータンは必ず木の上にベッドを作りますが、ゴリラは地上に作ることが多く、しかも同じベッドを次の日も使うことはありません。きれい好き(?)なゴリラは毎日新しいベッドを作りかえるそうです。
昭和16年のこの日、言論出版集会結社等臨時取締法が公布されました。(「言論出版集会結社等臨時取締法」って一体何を取り締まる法なんでしょう。?(笑))
☆イカを漢字で「烏賊」と書くのはなぜ?
イカはなぜイカと呼ばれるようになったのでしょう?一説にはその姿が「いかめしい」ことによるといわれています。
イカは漢字では、「烏賊」或いは「墨魚」「柔魚」とも書きます。「墨魚」はイカが墨を吐くことから、「柔魚」はイカの体が柔らかいところからきているのはわかりますが、ではなぜ、「烏賊」と書くのでしょうか?
烏賊の「烏」はカラスですよね。「賊」は盗賊の「賊」で、盗むとか、害することを意味します。中国の古書に「イカは死んだフリをして海面に浮かび、それを狙ってカラスが飛んできてついばもうとすると、イカは逆にカラスに巻きつき、海に引き入れて食べる。そこで烏賊と名づけた」とあります。つまり、カラスにとってイカは賊であるので、烏賊の字をあてるようになったというわけです。このほか、イカの吐く、墨がカラスの色のことであり、外敵(賊)に対して墨を吐くことから「烏賊」の字をあてるようになったという説もあります。
天保10年(1839)のこの日、幕府は渡辺崋山に蟄居、高野長英に永牢を命じました。(日本史が大嫌いだった私にはチンプンカンプンです。(笑))
☆わが国最初の海外留学生は女性
海外留学は今日ではさほど珍しくはありませんが、日本で最初の海外留学生はいったい誰だったのでしょう?留学といえば、すぐ、遣隋使(これは私にもすぐ思い浮かびました!)が思い浮かびますが、それが最初ではありませんでした。
わが国で最初に出家したのは司馬達等(たつと)の娘、『島』といわれています。因みに司馬達等は継体天皇の治世(507〜531)、梁(中国)から渡来した帰化人で、仏教興隆に尽くした人物です。
『島』は11歳で仏門に入り、善信尼と称し、のちに仏教興隆を目指す、蘇我氏の援助を受けました。そして崇峻元年(588)、仏教をもっと勉強する為、蘇我馬子に渡航の許可をもらい、百済に渡りました。その時善信尼はまだ16歳でした。彼女には二人の弟子(尼)がいましたが、彼女達も一緒に百済に渡り、2年間、仏教の修行をしました。
ですから、この3人の女性が日本の最初の海外留学生ということになります。(女性ってすごいですね!16歳で弟子が二人もいて、中国で2年間も修行するなんて、、、。やっぱり「女は強い」?)
昭和27年のこの日、京阪電鉄が戦後初の電車の車内暖房を開始しました。(これを知り、大阪人の主人は、「やっぱり関西の人間の方が、新しいことをするんだな」と嬉しそうでした。今では当たり前の車内暖房も始まってからまだ50年くらいなんですね。)
☆赤外線は赤くない!?
電気コタツにはたいていその熱源に赤外線電球が用いられていて、そのコタツは普通赤い色の光を出しています。そこで赤外線は赤い色をしていると思っている人もいるようですが、赤外線は赤くありません。
目に見える光(可視光線)の中でもっとも波長が長いのが赤色で、もっとも波長が短いのが紫色です。その可視光線の赤の外側に、目には見えない光があることを発見したのはイギリスの科学者ハーシェルという人です。赤の外側にあることからそれは赤外線と呼ばれるようになりました。赤外線は物質の温度を上げる働きを持っていて、その性質を利用したのが赤外線コタツです。ではどうして、赤外線コタツの色は赤い光を発しているのでしょう?それは熱源(電球)を赤く塗っているからなのです。人間は赤い色を見ると暖かく感じます。所謂、視覚効果を狙って電球に赤い色を塗って赤い色にしたわけなのです。
昭和7年のこの日、東京日本橋の白木屋(後の東急百貨店、今は、、、。)が火事になりました。(裾を気遣い、掴んでいる縄から手を放して落ちてしまうご婦人の映像が、印象深く私の記憶に刻まれています。この火事以来、女性が着物でも下着をつける習慣が定着したのもうなづけますね。)
☆初の火災報知機に電信機を用いたわけ
火災報知機のことを昔は非常報知機と呼んでいました。それが初めて設置されたのは明治24年のことです。東京府が東京の全警察署と巡査派出所、警察庁消防部、各消防署とその派出所に設置。この機械は発信と受信兼用の有線電信機で、出火やその場所を電信符号によって、相互に通報できる仕組みになっていました。
ところで、その設置について、東京府議会が審議した時、電信機により電話機のほうがいいのではないかという意見が多かったのです。電話機であれば、火災だけではなく、その他の連絡にも便利だし、また火災の状況など詳しく話すことが出来るからです。でも、結局、電信機に落ち付きました。それにはもちろん、理由がありました。その理由がおもしろいのです。
当時、警察官には鹿児島や熊本、或いは、東北地方の出身者が多く、いわゆる方言でしゃべっていました。そこで非常の際、そういう人たちの間で話をやりとりしても、はたして互いに意味が通じるかどうか危ぶまれたからなのです。
今のようにテレビも普及しておらず、「標準語」を誰でも喋られるわけではなかった頃、ならではのお話ですね。
昭和62年のこの日、最高裁が裁判の開廷前2分間にかぎって法廷内で報道用写真撮影を許可しました。テレビで私達が目にしているあの映像は、この2分間に撮影された映像だったんですね!(62年と言えば私が社会人になった年です。あの頃のういういしい私に戻りた〜い!)
☆「胸突き八丁」とは?
「胸突き八丁」という言葉があります。ものごとの1番苦しい時、いわゆる正念場のことをいうのですが、、、。その「八丁」の「丁」は距離の単位で、一丁は約109メートル、従って八丁は約879メートルということになります。でも、「胸突き八丁」ってそもそもどういうことなんでしょう?
夏目漱石の『虞美人草』に「急に折れた胸突坂が、下から来る人を天に誘う風情で帽に迫って立っている」という文章があります。その「胸突坂」とは傾斜が急な坂のこと。傾斜が急なので、登ると胸を突かれたように息が出来なくなるほど苦しくなります。そこでそうした坂を「胸突坂」と称したというわけです。
「胸突き八丁」の「胸突き」もそれと同じ意味で「胸突き八丁」とはもともと富士登山において、頂上までの最後の八丁の険しい道のりのことを言ったものなのです。それが他の山にも用いられ、さらに転じて、物事のいちばん苦しい時の例えとして用いられるようになったということです。