この部屋は、皆さんの日常の中で知っていてもそんなに得ってわけじゃないけど
知ってたら結構楽しい!と思えるようなことを紹介していきます。
☆これらのお話は『話のネタ大事典』(PHP文庫)を参考に書いています。
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明治10年のこの日、初の交通規則が制定されました。
☆狛犬は「犬」ではない!?
神社の参道などに置かれている一対の獣形の像を「狛犬」といいます。でも、あれは「犬」ではありません。狛犬の正体はじつは架空の動物で、中国ではそれを「じ」と呼び、蒼黒色で角を持ち、皮がかたくて厚い瑞獣(ずいじゅう)とされていました。その起源はペルシャやインド地方にあるといわれていて、それが日本に入ってきたとき、形の変わった犬と見なし、朝鮮半島の高麗(こま)から伝わったので、コマイヌと呼ぶようになりました。もとは高麗犬と書かれていました。
狛犬の像は獅子とよく似た形をしています。これはのちになって獅子と狛犬が混同されるようになったからです。昔は獅子の像と狛犬の像を向かい合わせて置くことが多かったのですが、後世になると、獅子の像は次第に狛犬の形に近づき、両者を同一視して狛犬と呼ぶようになりました。
尚、平安時代には獅子舞いと同様、狛犬舞いというものもありましたが、狛犬舞いは次第に廃れていきました。
昭和41年のこの日、ザ・ビートルズが来日しました。
☆「プレイ・ガイド」はもともと登録商標
映画・劇場・音楽会など各種の入場券の発売や案内をするところを「プレイ・ガイド」といいます。これは英語のPLAY(演劇)とGUIDE(案内)を組み合わせたものですが、それはいわゆる和製英語でプレイ・ガイドといっても英米人には通じません。
東京・銀座にプレイ・ガイドという催しもののチケットを販売する会社がありました。この会社の名前がその社名を登録したのは昭和8年頃のことですが、のちにプレイ・ガイドと名乗るチケット販売所があちこちにでき、もともと社名だったプレイ・ガイドはいつのまにか普通名詞になったという次第です。プレイ・ガイドのことはアメリカ英語ではticket office(チケット・オフィス)、ticket service(チケット・サービス)などと言い、イギリス英語ではbooking agency(ブッキング・エージェンシー)、booking office(ブッキング・オフィス)などといいます。
慶応元年(1865)のこの日、物理学者の長岡半太郎が誕生しました。
☆ガラスは液体!?
ガラスは固体か液体かとたずねられたら、多分殆どの人が固体を答えるでしょう。ガラスは固いし、水や油のように液状ではありません。ガラスを固体と思うのはもっともなことです。しかし、固体か液体かといえば、ガラスは液体の性質を持っているのです。
どうして液体なのでしょう?実はガラスはその原子やイオンが固体の状態ではなく、液体のようにかなり無秩序な配列状態のままになっているのです。固体のように見えても、本質的には液体―――粘性(ねばりこさ)が非常に大きい液体とみなすことが出来るのです。そこで、ガラスのようなものは無定形固体と呼ばれています。ガラスの原子の配列が不規則であることは、ガラスが光を通す理由でもあります。原子の配列が極めて不規則であるために、ガラスに当った光はその表面で反射もせず、またダラスの中で吸収もされず、通過していきます。ガラスが透明なのはそれが大きな原因なのです。
昭和42年のこの日発表の、「国民生活白書」で全体の約半数が「中流」と答えました。
☆お店のお客さんのアイディアから誕生した丼は?
カツ丼が早稲田高等学院の中西敬二郎という学生のアイディアによって誕生したことは有名です。早稲田の大衆食堂、カフェーハウスで、彼は店主の了解を得て調理場に入り、自ら工夫してカツ丼を作り出して食べました。それが結構な味だったことから、店のメニューに加えたところ、やがて大評判となりました。大正10年のことです。
カツ丼はつまり客がその考案者だったわけですが、天津丼と中華丼も同じく、そのもともとの考案者は客でした。東京・浅草に来来軒という中華料理屋がありました。昭和の初期のある日のこと、客がカニ玉とご飯を注文し、時間がないということで、ご飯の上にカニ玉をのっけてくれと頼みました。すると他の客も八宝菜とご飯を注文し、同じようにご飯の上に八宝菜をのっけてくれと頼みました。それがヒントとなって、天津丼と中華丼が生まれることになりました。来来軒ではそれぞれ、天津丼と中華丼と名付け、メニューに加えました。来来軒のおやじさんが名付け親なんですね。
延長8年(930)のこの日、平安京の清涼殿に落雷。(大納言藤原清貫・平希世らが焼死しました。)
☆雷の化石があるって本当?
化石といったら、あなたは何を思い浮かべますか?恐竜の化石、植物の化石、昆虫の化石など、いろいろな化石があります。化石という言葉から連想されるのはそうした化石ですね。ところで、化石といえば、雷の化石もあることはご存知でしょうか?
雷は電気を帯びた雲と雲の間、あるいは雲と地表との間に起こる放電現象です。そんなものが化石になるはずがないと思われるかもしれません。ところが雷の化石は本当にあるのです。山口県の須佐町に高山という山があります。その山頂には「磁石石」と呼ばれている岩石があります。この岩石は大変、磁性が強く、磁石の針も狂ってしまいます。その岩石がそうなったのは落雷が原因なのです。落雷によって岩石に含まれている鉄分などが磁化したのです。つまり磁石石は雷の化石ともいえるわけです。そうした磁石石は和歌山県の龍門山、信州の美ヶ原、島根県益田市の松島、福井県の雄島などにもあります。
昭和41年のこの日、国民祝日法改正が公布。(新しく9月15日が敬老の日、10月10日が体育の日と定められました。)
☆1日2回、同じ場所で日の出を見る方法は?
太陽がのぼってくる姿を目にすると、どことなく荘厳な気持ちになってきます。ます太陽の上の縁が見えてきます。そして徐々に姿をあらわし、数分後にはその全体が見えてきます。その日の日の出を1日2回、同じ場所で見る方法があります。もちろん太陽は1日1回しか昇りません。それなのにどうして2回も見ることができるのでしょうか?
地球は丸い形をしています。そのために、ちょっと工夫すれば日の出を2回見ることが出来ます。港の近くの高台などで船が近づいてくるのを望遠鏡でながめたことがあるでしょうか?そのとき、まず船の上の部分が見えはじめ、次第に下の部分も見えてきます。船が遠ざかっていく場合はには、反対に船の下のほうから見えなくなっていきます。それは地球が丸いからです。それを利用するのです。
日の出の瞬間を見た後、すぐにしゃがみこむ。そうするとまた日の出を見ることが出来るわけです。
昭和60年のこの日、歌手の松田聖子と俳優の神田正輝が結婚。
☆特産品コーナーを最初に設けた地下街は?
大きな駅にはそれと直結した地下商店街があります。その第一号は昭和5年に開業した東京・上野地下道の商店街です。この地下街は東京地下鉄道会社が関東大震災後の東京復興計画の一つとして作ったもので、上野公園の西郷銅像下の地下鉄乗車場から車坂までの約500メートルです。ここに地下鉄道会社直営の商店が並び、日用雑貨などを売りました。
ちなみに駅に直結したデパート、すなわちターミナルデパートのさきがけは大正9年、阪急梅田の停車場1階に開店した白木屋梅田店です。
ところで、大きな駅の地下鉄にはたいてい全国の名産・特産品を売る、ふるさとコーナーがあります。それを最初に設けたのは、大阪駅の地下街だそうで、昭和26年にオープンしています。それぞれの県の出身者が大阪市から場所を借り、特産品を並べて売りました。開店当初は30県ほどでしたが、数年後には沖縄を除くすべての都道府県が店を出したということです。
角兵衛地蔵尊祭り(新潟県西蒲原郡月潟村にて、25日まで)
☆角兵衛獅子に逆立ち芸がある理由?
角兵衛獅子と呼ばれている芸能があります。獅子頭をかぶり、鶏の尾をつけた衣装を着た子供たちが太鼓の音に合わせて踊ったり、逆立ちなどの技を披露します。角兵衛獅子は新潟県西蒲原郡月潟村で生まれたと言われています。児童虐待との理由から現在では行なわれておらず、月潟村の郷土芸能として保存され、6月の地蔵尊祭りにだけ行なわれます。
角兵衛獅子はどのようにして生まれたのでしょうか?子供たちはなぜ逆立ちをするのでしょうか?それについては次のような伝説があります。江戸時代、月潟村に元水戸浪人の角兵衛という農民が住んでいました。その村は毎年洪水が起き、村民が苦しむのを見て、角兵衛が生活の手段として子供たちに獅子舞いの芸を教えたといいます。また、こんな伝説もあります。ある夜、角兵衛が誰かに殺され、そのとき彼は犯人の足の指をかみ切りました。角兵衛には2人の息子がいましたが、二人は衆人の中から犯人(指のない足の人物)を探し出す為に逆立ちを考え付いたというものです。
昭和47年のこの日、自然環境保全法・大気汚染防止法改正・水質汚濁防止法改正がそれぞれ公布されました。
☆ムカデの足は何本あるの?
ムカデはたくさんの足を持っています。そこで漢字では「百足」という字をあてています。因みに英語ではムカデのことをセンティピード(centipede)といいますが、それはやはり「100本の足」という意味です。
御伽草子に『俵藤太物語(たわらとうだものがたり)』というのがあります。その中に俵藤太が三上山に住む大ムカデを退治する話があり、そのムカデは足が何千本もあったということになっています。これはもちろんフィクションであり、そんなに沢山の足を持つムカデはいません。一体ムカデは何本の足を持っているのでしょうか?実はムカデの足は種類によって異なります。100本ちょうどのムカデもいますし、28本しかないムカデもいます。もちろん100本以上の足のムカデもいます。アフリカ北部に棲息しているシリアオムカデは210本(105対)以上の足を持っていて、中には346本(173対)もの足を持つものもいます。
安政3年(1856)のこの日、洋画家の浅井 忠が誕生しました。
☆子猫は自分専用の乳首を決めている
猫は1度の出産でふつう3〜5匹の子を産みます。生まれたばかりの子猫はまだ目が開かないので、鼻で母猫の乳首を探り当てて、オッパイを飲みます。猫の乳首はふつう3対6つ(または4対8つ)あります。
子猫はそのうちどれでも勝手に吸うわけではありません。生後2,3日のうちにそれぞれ自分専用の乳首を決め、離乳まで変えません。まだ目も開かないうちに専用の乳首を決めてしまうのです。
強い子猫が乳首を独占してしまうと、他の子猫はオッパイにありつけないという事態が起こります。それを防ぐためにそのような仕組みができあがっていったのでしょう。それでは目の見えない子猫にどうして自分専用の乳首が分かるのでしょうか?そのヒミツは嗅覚にあります。犬ほどではありませんが、猫の嗅覚はかなり発達していて、乳首ごとに異なる微妙なにおいの違いを区別出来るらしいのです。だから飼い主が母猫のお腹をきれいに洗ってしまうと子猫たちは自分専用の乳首を見付けられなくなるので、匂いがなくなるほどキレイにするのは避けた方が子猫の為のようです。
昭和47年のこの日、田中角栄の『日本列島改造論』が発表になりました。
☆「安来節」(やすきぶし)はなぜドジョウすくいなのでしょうか?
島根県の民謡に「安来節」というのがあります。「安来節」は江戸時代後期から出雲地方で広く歌われていましたが、船頭歌がもとになっているといわれています。それが歌いつがれ、広まり、「安来節」として全国的に知られるようになったのは大正時代になってからです。「安来節」にはユーモラスな仕草の踊り、すなわち「ドジョウすくい」の踊りがつきますが、この踊りは歌詞の内容とは関係ありません。それなのにどうしてドジョウすくいなのでしょうか?
「安来節」がうまれた安来はもと砂鉄の産出地でした。「ドジョウすくい」のドジョウはもともとは「土壌」、すなわち砂鉄すくいを表現したものだという説があります。それに対し、「ドジョウすくい」のドジョウは魚のドジョウのことで、その地方に多く棲息していたドジョウを若い衆がすくってきて、それを肴に酒を飲んで酔っ払い、ドジョウをすくっている身振りを再現して踊ったものが、変化したものだという説もあります。
延享元年(1744)のこの日、幕府、継早飛脚の廃止を命じる。
☆飛脚が「十七屋」(じゅうしちや)と呼ばれたわけは?
江戸時代、手紙や金銭などを運送することを業にする人を「飛脚」、あるいは「飛脚屋」といいました。また別の呼び名もあり、「十七屋」ともいいました。
江戸時代の川柳に「はやり風十七屋からひきはじめ」というのがあります。その十七屋は飛脚のことです。飛脚は各地を回るので、風邪にかかりやすい。「十七屋日本の内はあいといい」という川柳もあります。「あい」は肯定の意の返答です。(「ハイ」ですね)日本中なら手紙などの運送はどこでも請合いますという意味です。
ところで、なぜ、「十七屋」なのでしょう?
十七と言えば、俳句の文字数は5・7・5で十七文字ですが、これと何か関係があるのでしょうか?否。俳句とは何の関係もありません。満月の(十五夜)次の次、十七夜のことを、夕方に立って待つ間に出る月という意味から「立ち待ち月」といいます。飛脚に手紙などを頼めば、たちまちに相手のところに届きます。その「たちまち」と「立待ち月」の語路合せから「十七屋」と呼ぶようになったわけです。
昭和44年のこの日、海底地形図が海上保安庁水路部によって完成しました。
☆魚はどうして生臭いのでしょう?
魚は嫌いだという人がいます。(小次郎母は大好きです)とくに子供たちの中には魚嫌いが多い。その大きな原因はにおいです。魚を嫌う人の多くが生臭いからといって、食べたがりません。魚は生きているうちはそれほどにおいはないのですが、死んで鮮度が落ちてくると生臭いにおい、不快なにおいを発するようになります。
そのにおいの成分は「トリメチルアミン」と呼ばれている物質です。魚嫌いの人の中には魚のフライはそれほどではないけれど、煮魚はまったくダメという人が多い。トリメチルアミンは煮魚にしたとき最も強く感じられるからです。また、子供に魚嫌いが多いのは、大人より子供の方がにおいをよく感じとるからなのです。
そこで魚のにおいを消す方法をご紹介しましょう。(ちょっと気持ちわるいのですが、、) 牛乳はにおいの物質を包み込む働きがあるので、魚を調理する前に牛乳にひたしておくといいのです。また魚を煮るとき酢を少し加えるとにおいが出にくくなります。
1967年のこの日、中国、初の水爆実験に成功。
☆酸素は「酸の素」ではない
酸素はフランス語でオキシジェーヌといいます。それは「酸を生成するもの」「酸の素」という意味で、フランスの化学者、ラヴォアジェ(1743〜1794)が名付けたものです。
ラヴォアジェが生きていた時代、すべての酸は非金属の元素の酸化物であると考えられていました。炭や硫黄を燃やすと、その気体から炭酸や硫酸が出来ます。でも、炭も硫黄もそれ自体には酸の性質はありません。そこで、空気中に酸の素となるものがあり、それと結び付いて酸になると考えたわけです。
それは後になって間違いであることが判明します。たとえば塩酸は水素と塩素からできており、酸の素(いわゆる酸素)は含まないことが明らかになり、酸の素、すなわち酸の本体は水素であることが分かってきました。本当は水素が「酸の素」だったわけですが、酸素は名前の上では「酸の素」として今でもなお使われています。酸素は酸と無関係なのです。
和菓子の日(昭和54年に全国和菓子協会が設けたもの)
☆羊羹と羊の関係とは?
和菓子の羊羹の「羹」はあつもの(吸い物)のことで、羊羹とはすなわち羊肉のスープのことであり、もとは中国の古典的な食べ物でした。
鎌倉・室町時代に禅宗文化が中国から渡来したとき、羊肝こう(「こう」という字はワードに入っていませんでした)という餅、ないし団子の一種も入ってきました。それは小豆と白砂糖で作ったもので、その色と形が羊の肝に似ていました。これが菓子としての羊羹の原型でした。日本で作られた最初の羊羹は蒸し羊羹で、今日のような寒天を用いた羊羹が誕生したのは江戸時代に入ってからです。
なぜ、羊肝こうが羊羹となり、羊肝こうという名が定着しなかったのでしょうか?当時の日本では獣肉食を喜ばない風潮がありました。羊肝こうは本物の羊の肝を用いたものではありませんが、「羊の肝」ではイメージが悪く、そこで、その名がよく似た中国の古典的スープ料理である「羊羹」の名を借りて呼ぶようになったのではないか?と言われています。
昭和43年のこの日、東大医学部学生自治会が登録区制度に反対してストに入り、安田講堂を占拠しました。
☆どうして1人でも「友だち」なの?
「私たち」、「君たち」、「選手たち」というように、複数の人を表わすとき、「たち」という接尾語を用います。ところが1人でも「友だち」といいます。それはどうしてなのでしょうか?
「たち」という接尾語は、もともとは神・天皇・高貴な人などについて、それを複数で表わす言葉でした。同じ複数を表わす接尾語に「ども」、「ら」がありますが、それは地位、年齢が下の者や親しい関係の人物について用いられました。「たち」はそれより敬意が強かったのです。
ところが時代がたつにつれて、「たち」は敬意の程度が次第に下がっていき、地位・年齢が低い者や親しい者などにも使われるようになり、そのうちに「たち」はすっかり敬意を失ってしまいまい、動物や、「私たち」、「俺たち」というように自分自身についても使うようになりました。それと同時に「たち」は複数の意味も薄れ、1人でも「友だち」と言うようになりました。
1811年のこの日、『アンクル・トムの小屋』の作者、ストー夫人が誕生しました。
☆時計がわりになる不思議なセミ
クマゼミは午前中しか鳴きませんが、多くのセミは午前でも午後でも、あまり時間帯に関係なく鳴きます。ニイニイゼミなどは朝から夕方まで鳴いています。夕方なくところからヒグラシは夕方だけではなく、夜明けにも鳴きます。
太平洋のトラック諸島には、ミドリチッチゼミという、大変珍しいセミがいます。この名のとおり、このセミは緑色で透明なハネを持っており、チリッチリッと鳴きます。
その何が珍しいかといえば、ミドリチッチゼミは鳴き出す時刻がほぼ毎日同じなのです。ある研究者が、1週間にわたって調べたところ、午後6時前後に鳴き出し、その誤差はわずか5分ほどだったそうです。同じ時刻に鳴き出すので、このセミは時計がわりになるわけです。珍しいのはそれだけではありません。ミドリチッチゼミが鳴いているときに、人が手を叩くと、そちらの方へ飛んできて、人の頭などにとまるという面白い習性を持っています。
1773年のこの日、イギリスの医者・物理学者のトーマス・ヤングが誕生しました。
☆後ろ向きに歩くカニもいる?!
「カニの横ばい」ということわざがあります。多くのカニは横向きに歩くことから、物事の進行に邪魔が入って、とにかく横にそれがちになり、なかなかうまくはかどらないことをいいます。カニの脚は体の横に前後接してついており、関節は人間の膝のように一方向しか曲がらないので、関節を曲げ伸ばしすると、どうしても横歩きになってしまいます。
しかし、すべてのカニが横歩きとは限りません。前や斜めに歩くカニもいます。クモガニ類、コブシガニ類などは前に歩きます。これらのカニは関節が比較的自由に動くため、普通は前に歩きます。また普通は横歩きしているカニの中にも必要があれば前に歩くものもいます。タカアシガニは脚が長く、前後左右に歩くことが出来ます。後ろ向きに歩くカニもいます。アサヒガニやカラッパ類がそうです。これらのカニは横のほうや前方には脚やハサミが邪魔で歩きづらいので、後ろの方向にはうようにして歩きます。
明治24年のこの日、政治家の近衛文麿が誕生しました。
☆どうして贈り物に水引きをかけるの?
贈り物をするとき、水引きをかける習わしがあります。水引は印刷された懸け紙で包んで贈ることもあります。簡単な贈り物ではそうした懸け紙がよく用いられます。ちなみに水引きという名の由来については、紙縒(こより)を水に引きわたして染めることからとか、紙縒に糊水を引くところからとか、いくつかの説があります。
水引きは贈り物を包みとめるものですが、それはもともと注連縄(しめなわ)と同じ意味を持っていたと考えられています。
神社で注連縄をよく目にすることがありますが、注連縄は不浄なものが入ることを禁止するために張ったものです。実は水引きも本来は注連縄と同じように、贈り物に不浄なものが入りこまないようにという一種の魔除けのマジナイの意味を含んでいたと考えられています。
しかし、今日では水引きは贈り物を結びとめるためのヒモ、あるいは贈り物を美しく引き立てる装飾と化しています。
1864年のこの日、ドイツの作曲家、リヒャルト・シュトラウスが誕生しました。
☆日本で初の蛍光灯は法隆寺で使用
蛍光灯の歴史は白熱灯の半分ほどしかありません。しかし、今や蛍光灯は白熱灯を圧倒しています。日本で最初に昼光色の蛍光灯が照明として最初に用いられたのは意外な場所でした。
昭和14年、法隆寺が改善されることになり、その解体に際して金堂の壁画を保存するために、それを模写することになりました。この模写は昭和26年に完成しましたが、金堂の内部は昼も暗く、明かりがなくては模写がうまくいきません。かといって、白熱灯では原画の色彩を忠実に出せません。そこでまだ当時は試作段階だった蛍光灯がその照明として使われることになりました。
東京芝浦電気では昭和15年4月からその製作を始めましたが、家庭にはなかなか普及せず、潜水艦の照明などに使われました。
寛永5年(1628)のこの日、水戸藩主。徳川光圀(水戸黄門ですね)が誕生しました。
☆「啖呵を切る」とは何を切るの?
鋭くて歯切れのいい言葉でまくしたてたり、ののしったりすることを「啖呵を切る」といいます。その「啖呵」とはそもそもどういう言葉なのでしょうか?
近松半ニ作の浄瑠璃『新版歌祭文(しんばんうたざいもん)』(お染め久松)に「痰火は胸にせき上せば、この寒いのに寝所にやっぱり居たがよござります」というセリフがあります。その「痰火」は風邪をひいたときなどに、咳をともなって激しく出る痰のこと、あるいは、痰の出る病気のことです。その病気を治療すること、すなわち、喉にからまった痰を切ることを「痰火を切る」といいました。一説に今日使われている「啖呵を切る」という言葉は「痰火」の当て字で、喉にからまった痰を切るとすっきりします、そこで胸のすくような鋭くて歯切れのよい口調で話すことを「啖呵を切る」というようになったと考えられています。
昭和22年のこの日、石坂洋次郎、『青い山脈』を朝日新聞に連載開始
☆山の「1合目、2合目」――――その由来は?
山の麓から頂上までの行程を示す単位に「合目」があります。全行程を10に区切り、その一つ、一つを「合目」と称します。山に合目をつけることは江戸時代の富士山信仰登山に始ったものですが、その「合目」は一体どこからきているのでしょうか?それについてはいくつかの説があります。
富士山に登る時、昔の人々は油で灯をともしながら登りました。その際、ふつう一升(10合)の油が必要でした。その油の1合分の地点を1合目、2合分の地点を2合目と呼ぶようにになったというもの、また、白米一升を逆さにこぼし、その円錐形を富士山に見立て、それを10に区切って1合目、2合目と呼ぶようになったというもの、富士山は昔は籾(もみ)の山に似ているといわれていましたが、籾は枡で計り、その単位の「合」によって1合目、2合目と呼ぶようになったというものなどです。どれが正解か?今のところいずれの説も推測の域を出ません。
1810年のこの日、ドイツの作曲家、ローベルト・シューマンが誕生しました。
☆弁慶と牛若丸はどこで出会ったの?
文部省唱歌に「牛若丸」という歌があります。♪京の五条の橋の上、大のおとこの弁慶は、長い薙刀(なぎなた)ふりあげて、牛若めがけて切りかかる…・。ところが『義経記』によれば弁慶と牛若丸が最初に出会ったのは五条の橋の上ではなく、他の場所であったということです。弁慶と牛若丸が最初に出会ったのはこの本によると、治承2年(1178)6月17日の夜更け、現在の時刻では翌18日の明け方だったようです。出会ったところは五条の天神の前でした。
笛の音とともに御曹子(牛若丸)が現れて、両者はたがいに太刀を抜いて戦いますが、牛若丸が勝利します。翌日、両者は清水の観音堂で再び出会い、弁慶は薙刀をもって牛若丸に立ち向かいました。弁慶が薙刀を空振りし、宙をきったその腕の上を牛若丸はゆらりと飛び越えました。これでは相手にならないと弁慶は観念しました。
両者が出会ったのは五条の天神の前と清水の観音堂。それなのに、いつしか五条の橋の上ということになってしまったようです。
1848年のこの日、フランスの画家、ゴーギャンが誕生しました。
☆ペンギンは転んだらどうして起きる?
ペンギンはヒョコヒョコと歩きます。その歩き方はどことなくぎこちない感じがしますが、そこがペンギンの魅力の一つでしょう。
ペンギンはもともとは空を飛んでいました。それがいつのまにか飛ばなくなり、歩くようになりました。だからと言って、歩くのが下手というわけではありません。ペンギンは海岸のの岩場やツルツルした氷の上で暮らしているので、転んだりすることがよくあります。そんなときペンギンはどのようにして起き上がるのでしょうか?
ペンギンが前方に転び、うつ伏せになったとしましょう。そうなったらペンギンはまずクチバシを地面に立て、上半身を少し持ち上げます。そして翼に力を入れ、同時に足の指の爪で地面をしっかりとつかまえ、上体をグイッと起こします。後ろ向きに倒れたときは、どうするのでしょうか?そんな時は、勢いをつけて半回転し、うつ伏せの状態になり、その後は上述の通りのやり方で起き上がります。
1599年のこの日、スペインの画家、ペラスケスが誕生しました。始りました。
☆魚の中でもっとも長生きなものは何?
魚の中でもっとも長寿なのは何でしょう?魚の年齢を調べるのにウロコの年輪による方法があります。樹木と同じように魚のウロコにも年輪が出来、成長するにしたがって数が増えていきます。その年輪の数から日本のある池にすむコイは200歳以上になるといわれたことがありますが、ふつうのコイは50歳くらいが寿命のようです。
多くの学者の研究・調査によると、ナマズ類は60年くらい生き、もっとも長生きの魚とされています。次はウナギやコイで約50年、サメ類が40年、マダイ・イシダイ・キンギョが30年、エイ・ドジョウが20年。以上が長寿の魚です。コイやキンギョは飼育の仕方ではもっと長生きする場合もあります。一方もっとも短命な魚は、ギネスブックによれば、アフリカと南米に住むキリフィッシュという魚で、これは8ヶ月くらいで一生を終わります。
昭和38年のこの日、関西電力の黒部川第4発電所が完成しました。(出力23万4000キロワット)
☆なぜ一里塚に榎が植えられたのか?
その昔、街道の脇には1里(4キロ)ごとに塚が築かれ、木が植えられていました。これを一里塚といいます。木を植えたのは塚が崩れない為、そして夏に旅人がその葉陰で涼を取る為です。一里塚はすでに織田信長によって始められていて、それが豊臣秀吉が受け継いだのですが、まだ部分的でしかありませんでした。慶長9年(1604)、徳川秀忠がそれをさらに拡大し、東海道、中仙道、北陸道の3道に一里塚を築かせました。こうして塚が造られ、榎が植えられたのですが、秀忠は別に榎と指定したわけではありませんでした。 ではなぜ、榎が植えられたのでしょうか?
工事の総監督は大久保石見守長安(いわみのかみ)で、秀忠にどんな木を植えましょうか?と相談したところ、秀忠は「異な木」を植えよと答えました。すなわち松とは違った珍しい木を植えよといったわけなのですが、大久保が「イナ木」を「エノキ」と聞き間違えてしまいました。かくして一里塚には榎が植えられることとなりました。
明治5年のこの日、犯罪者の写真を撮影して保管することが決まりました。
☆アメリカのカメラ店でDPEは通じるか?
カメラ店の店頭でよくDPEと書いた看板を目にします。DPEとは、development(現像)、printing(焼き付け)、enlargement(引き伸ばし)の頭文字で、Eを略してDPとだけ書いた看板もあります。
DPEのそのもとの3つの単語は英語ですが、アメリカやイギリスでもカメラ店はDPEという看板を出しているのでしょうか?
外国のカメラ店ではそうした看板は見当たらないようです。DPEのものの単語は英語ですが、DPEという略語は日本人が創作したもののようです。昭和30年頃から使われるようになりました。
英語でDPといえば、それはDefense Protection Administration(アメリカの国防生産局)の意味にとられかねません。それでは英米のカメラ店の看板はどうなっているのかというと、Photo processingあるいはPhoto shopといのが一般的のようです。
貞観10年(868)のこの日、円珍が延暦寺の座主となりました。
☆銭湯の建物はなぜお寺みたいなのでしょう?
最近の銭湯にはモダンな造りのものがありますが、昔風の銭湯にはその正面や屋根などがお寺や神社のような形をしたものが多いですね。とくに東京を中心とした関東地方にはそうした寺社様式の銭湯が多く見られます。どうしてそんな形になったのでしょうか?それには何かわけがあるのでしょうか?
その建築様式の歴史はそれほど古くはありません。寺社様式の銭湯が造られるようになったのは大正12年以降のことで、それは関東大震災と関係しています。大正12年9月1日、関東地方にマグニチュード7,9の大地震が発生し、約47万戸の家屋が全壊焼失しました。銭湯も大きな被害を受けました。その後、崩壊した銭湯は再建されることになりますが、銭湯の再建にあたり、活躍した大工の1人に、津村享右という人がいました。津村氏は宮大工としての技術を持った人で、彼のアイディアによって「唐破風」(からはふう)と呼ばれる屋根などを持つ寺社様式の銭湯が誕生したというわけです。
明治42年のこの日、東京・両国にできた相撲常設館、国技館が挙行。
☆昔の力士は”化粧回し”で相撲をとった?
大相撲では土俵入りのとき、力士は化粧まわしをつけて土俵に上がります。この化粧まわしが登場するのは江戸時代の中ごろです。どうして化粧まわしをするようになったのでしょうか?
現在の大相撲では相撲をとるときは力士は化粧まわしをしません。締め込みに下がりをつけて相撲をとります。ところが江戸時代の元禄から享保のころには化粧まわしをつけて相撲をとりました。すなわち江戸時代の初期の相撲(勧進相撲)では、白麻の締め込みをして相撲をとっていましたが、やがて麻のほか緞子を使うようになり、生地の端を30センチくらい前で出し、短いエプロンのように前に垂らし、この前垂れに豪華な模様を施すようになりました。一種のミニ化粧まわしです。それは土俵入りにも兼用されました。おそらくそんな理由からだと推測されますが、土俵入りの用に別に化粧まわしが作られるようになり、ミニ化粧まわしは姿を消すことになったようです。
☆都合によりお休み致します。